グアヴァ(Guava)

 グアヴァは熱帯に生育する樹木およびその果実である。イスパニア語ではGuayabaという。グアヴァの木は、丈が低く、果実は容易に採取できる。滑らかで白い樹皮で覆われたグアヴァの木には洋ナシ形の果実が実るが、丸い球体のものもある。果実は皮が薄く、熟すと黄色くなり、熟していなくても食用とすることができるほど美味しいものが、西インディアスのニカラグアの太平洋沿岸の町リア・レハ郊外などにあるというが、たいていのものは熟していないときには苦くて美味しくないし、お腹の通じが悪くなるのだという。これとは逆に、熟したグアヴァの果実を摂ると通じがよくなるといわれている。
 果実は絞った果汁を飲み物として飲んだり、洋ナシや他の果実のように焼いて食べたりする。グアヴァもイスパニア人が未開のままにしてあるジャングルなどに自然に生育しているため、バッカニアの重要な食糧として知られていた。

ユカ(Yuka)

南米大陸原産といわれる芋で、古くからインディオの主食であり、手間をかけなくても自生してゆく。ユカという語は、アンデス周辺で呼ばれた名であり、他地方ではキャッサバ、マニオク、マンディオカなどと呼ばれる。インディオは他にもヤムイモ、ジャガイマ、サツマイモを重要な食糧とし、またグァバの果実を採取して果実から出る甘い汁を飲んだ。特にジャガイモは、16世紀中ごろスペイン人によって発見されて以来、ヨーロッパに持ち込まれ、そののちヨーロッパの人口増加に一役買うことになる。これらの芋類は栽培が容易であったことから、ヨーロッパのみならずアフリカや東インディアスにも持ち込まれた。

新大陸の銀山

 イスパニアによる新大陸の征服から間もなく銀山を発見した。16世紀の半ば、各地で豊富に銀を産出する銀山が現われ、王府より採掘権を得たイスパニア人が多く鉱山に流入した。彼らは採掘権を得て、キントと呼ばれる五分の一税を国に納めることで、国に代わって銀山を自由に採掘して銀を手に入れることができた。


 銀山を採掘するのは、イスパニア本国から職を求めてやってきたイスパニア人もいたが、多くはレパルティミエント(Repartimiento:分配制度。クリストバル・コロンに始まるといわれる、新大陸の産物や土地、労働力としてのインデイオを植民者で分配するという植民者保護政策)と呼ばれる強制労働徴用制度によって強制的に徴用されたインディオだった。イスパニアでは1542年のインディアス新法により、新大陸のインディオを奴隷化することを禁止していたが、レパルティミエントによって、彼らインディオはほとんど奴隷と同じ扱いを受けて徴用されていた。

 しかし、インディオは元来華奢で、体力のない人々だった。このため、体力的に負担の大きい鉱山開発の仕事に耐え切れずに死んでゆくインディオは後を絶たず、段階的にイスパニア人の流入が増加してゆく傾向にあった。アフリカ人奴隷の導入が検討されることもあったが、アフリカから太西洋を越え、ポルトベロやカルタヘナといったカリブ海沿岸の港から標高2000メートルを越える大陸内部の銀山までアフリカ人奴隷を運搬するのは、とても困難なことだった。ただでさえ、アフリカ人奴隷は大西洋を渡ってくるあいだに、とても人間扱いされているとも思えないような狭く暗い船倉にぎっしりと詰め込まれ、新大陸に上陸するのを待たずに死亡してしまうことが多かったので、その上、内陸まで奴隷を運ぶのは、イスパニア人にとってのいわば大切な"商品"を駄目にしてしまうリスクを伴うので、実現しなかったのである。

 鉱山開発が進むと、主にイスパニア人の自由労働者のために町が発展した。町の周辺にはアシエンダ(Acienda:大農園)が開拓され、労働者のための食糧が供給された。鉱山山麓の町から近隣の都市へ道が建設され、交通が盛んになってゆくと、そうした街道の途中には宿場町が建設された。こうして発展を遂げた地域の中でも、ペルー副王領のセロ・リコ(Cerro Rico:豊かな丘)と呼ばれる銀山の麓に建設されたポトシ(Potosi)は、新大陸でも指折りの人口数を誇る大都市に成長していった。

 ポトシは、標高3900メートルの高地に位置し、セロ・リコを水平や斜め上に向かって掘り進めることが可能だったので、坑道が浸水しづらいという意味において恵まれた環境にあった。町には貨幣製造所(Casa de la Moneda)が建設された他、バロック様式の修道院や教会が多く建設されるなど、イスパニア人によって本国の故郷を模した都市が形成されたいった。前述のように、新大陸内でも最大規模の人口を数えるまでに巨大化したこの鉱山都市からは、イスパニアに流通した銀のおよそ八割を、そして世界に流通した銀の半分にも及んだという。

 他にもイスパニア領アメリカで有名な銀山都市がいくつかあるので、書き留めておくことにする。

ヌエバ・イスパニャ副王領
 ・サカテカス(Zacatecas)
 ・グアナフアト(Guanajuato)
 ・サンルイスポトシ(San Luis Potosi)
 ・パチュカ(Pachuca)

ペルー副王領
 ・ポトシ(Potosi)

メスティソ(Mestizo)

 白人と新大陸の原住民・インディオのあいだに生れた混血の人を指す。同様に、白人とアフリカ黒人のあいだに生れた人をムラート、黒人とインディオの混血をサンボという。新大陸においては、海岸や海岸に近い植民都市部では、白人の流入が多いために白人の血が強い混血になり、アンデスやメキシコの山あいやブラジウの内陸など、インディオが白人から逃避可能な地域にあっては、インディオの血が強い混血人が多かった。また、ブラジウの港湾都市などでは、アフリカから導入された黒人の混血人の割合が多いのだという。


 メスティソが誕生するきっかけとなったのは、ピサロやコルテスに代表される、イスパニア人による新大陸の征服とそれに関わる活動の産物である。16世紀初頭、数百年に渡って繰り広げられたレコンキスタの終結により、失業したイスパニア人は大変多かった。一般軍人から貴族にいたるまで、失業するものはあらたな自由と収入を求めてクリストバル・コロンが到達した新大陸に思いを馳せた。彼らの多くは王の勅許を得て資金を融資してもらう形で新大陸へ旅立った。そして彼らが未知の土地、新大陸で出会ったのが、インディオの女だった。彼らは辺りかまわず女を強姦し、子を孕ませた。中にはコルテスの妻マリンチェのように白人の正妻として迎えられる女もおり、イスパニア王室でも、インディオの女と結婚する時は、彼らのなかでも身分の高い貴族出身の女との結婚を奨励したこともあった。このため、初期の新大陸における植民世界では、メスティソは白人となんら差別されることなく、同等に扱われた。

 しかし、新大陸の支配がコンキスタドールの手から副王とインディアス枢機会議を中心とする王室主導の植民地支配の社会構造へと変化してゆくと、彼らメスティソの立場も変化してゆく。王室主導の植民地支配において、その社会構造は白人上位の人種別身分制社会へと次第に変化していったのだ。白人を最上位として、次にクレオール(新大陸で生れた白人)、メスティソ、黒人奴隷、インディオといった順序で人種の差別化が図られた。16世紀の半ばにインディオを奴隷化するのを禁止する法令が施行されたため、インディオは商品として価値のあった黒人奴隷と較べると、その価値はないに等しいというわけだ。一方、クレオールやメスティソも白人による差別の対象となった。彼らはギルドに所属することを認められず、したがって親方として職人としてひとり立ちすることができなかった。彼らは18世紀末に発布された"格上げ恩赦令"と呼ばれる、差別緩和のための法令が登場するまで、社会の中で差別を受け続けた。彼らは、社会的に白人から信用されなかったので、就くことのできる職といえば農園の管理人くらいであった。しかし、こうした差別もメスティソの数の増加とともに徐々に緩和されてゆくこととなる。そして前述の格上げ恩赦令によって、教養があり、人格的にも取り立てて咎められるようなところが見受けられない人物であれば、金を払うことで白人が享受しているのと同じ権利を得ることができた。


KeyWord:[クレオール(クリオーリョ)][ムラート][サンボ][マルティニク][キュラソー][マリンチェ][コルテス][ガルシラソ・デ・ラ・ベガ]

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イスパニア植民政策における行政区分あれこれ

イスパニアはコルテスやピサロといったコンキスタドールが命を賭して植民を進め、次第に明らかになっていった新大陸の豊かな土地を徐々に国主導による植民地経営へと切り替えてゆく。1535年にはコルテスのヌエバ・イスパニャにおける実権を奪うかたちで副王が設置され、続いて南米大陸のリマにもピサロ暗殺後、同様にペルー副王が設置された。これは1542年のことで、エンコミエンダ制の完全撤廃を目指したイスパニア王府により、"イスパニア新法"が公布された年でもあった。

新法公布と副王制の導入は、コンキスタドールやエンコメンデロにとって大変な脅威に他ならなかった。このため、ペルー副王領をはじめとしてコンキスタドールによる反乱が相次ぎ、王府はエンコミエンダ制廃止を新法から除外せざるを得なくなったのであった。いずれにしても、16世紀後半から17世紀にかけて、インディオの激減などによって、多くの地域ではエンコミエンダは機能しなくなっていた。多くのコンキスタドールやエンコメンデロは、自らのエンコミエンダを放棄し、新大陸に広大は土地を購入して、インディオよりも屈強で使いものになるアフリカ人奴隷を購入して、農場経営に乗り出していた。

・副王(Virreinato)
イスパニア国王の分身として君臨する。1535年ヌエバ・イスパニャに、1542年ペルーに設置された。のち、1717年にヌエバ・グラナダ副王領が、1776年にヌエバ・ラ・プラタ副王領がペルー副王領から分離した。行政、司法、軍事、貿易、財政(徴税)、宗教(教会)における監督者であって、本国のインディアス枢機会議や通商院の制定した法令を施行することが主な任務であった。副王の諮問機関的な役割を果たしたアウディエンシアと委任権限が重複していたため、対立することもあった。

・アウディエンシア(Audiencia)
もとはイスパニア本国における王立大審問院なる司法機関のことを指す名称である。新大陸においては、インディアス枢機会議に属する機関であり、エンコメンデロの監視、徴税、教会の管理などその任務は多岐に渡ったため、本国のアウディエンシアが持つ司法権に加え、立法権も所有した。新大陸における副王領の主要都市に置かれ、管轄区域内における暫定的な立法権を所有していたため、副王と対立することも多かった。

・ゴベルナシオン(Gobernacion:総督領)
副王直轄領の下におかれ、ゴベルナドール(Gobernador:総督)が副王領を治めた。下にコレヒミエント(Corregimiento:代官領)とアルカルディア・マヨル(Arcardia Mayor:郡長官)があり、コレヒドール(Corregidor:代官)が市民と直接接することが多かった。

通商院(Casa de Contratacion de Indias)
インディアス貿易における輸出入品管理から訴訟、海洋研究、水先案内人育成、法令の発布まで、様々の権限を持っていた。1503年にセビージャに設立され、同地で新大陸貿易は一元管理されたが、のちにカディスに移設された。1524年、インディアス評議会がインディアス枢機会議としてイスパニア王直属の諮問機関となると、通商院はその支配下に入り、それまで所持した権限も貿易関連の業務のみに縮小された。

・アデランタミエント(Adelantamiento:辺境総督領)
アデランタード(Adelantado)により治められる区域。アデランタードはカピタン(Capitan:軍務総監)の支配下におかれた。

・インディアス枢機会議(Consejo de Indias)
カトリック司祭のバルトロメ・デ・ラス・カサスに代表される、新大陸支配におけるインディオの扱いの不当性を訴える声の高まりが契機となって発足したインディアス審議会を格上げしたもの。格上げ後は王の諮問機関として植民地経営の中枢を担った。コンキスタドールの勢力縮小を狙って副王制を新大陸に導入したのもこの枢機会議である。

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フアン・フェルナンデス島(Isla Juan Fernandez)

イスパニア人フアン・フェルナンデスによって発見された島である。南海(Mar del Sur:太平洋)上、南米大陸の西沖に位置する。島は無人であったが、フアン・フェルナンデスが島に持ち込んだ山羊が野生化したものが、その後長きに渡って棲息しているほか、アザラシ、ペンギンなどの生物がみられる。また、土地も豊かであることが確認されており、フアン・フェルナンデスは島に植民することを試みたが、許可を得ることが叶わずこれを断念した。

島は森林地帯とサバンナ地帯で形成されているほか、岩肌をむき出しにした山々と渓谷が島のあちこちにある。島の東端に投錨に適した湾があり、ここは前述の荒々しい山や渓谷に囲まれるようになっているため、バッカニアの格好と停泊地となった。マゼラン海峡(Estrecho de Magallanes)を航海し、新大陸西岸一帯を襲撃するバッカニアにとって、この島は私掠活動の拠点として有名であったので、イスパニアのほうでも軍船を派遣して島を警戒していた。

また、この島はスコットランド人船乗りのアレキサンダ・セルカーク(Alexandar Selkirk)が同島で遭難し、4年以上ものあいだ自給自足の生活を続けたことでも知られ、彼は後世『ロビンソン・クルーソー』のモデルとなった、とも言われる。フアン・フェルナンデス島の西に位置する島が後にセルカーク島と、またフアン・フェルナンデス島もロビンソン・クルーソー島と名づけられることとなる。

KeyWord:[ウィリアム・ダンピア][バジル・リングローズ][フアン・フェルナンデス][アレクサンダ・セルカーク]

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パナマ(Panama)

 テワンテペク地峡(Istmo de Tehuantepec:パナマ地峡)の南海(Mar del Sur:太平洋)側に位置する港。1519年にペドラリアス・ダビラが建設した町で、フランシスコ・ピサロのインカ征服をはじめとして、新大陸における征服の拠点となった。ペドラリアスはパナマを拠点にしてピサロやコルドバを新大陸の未開の各地に派遣したのである。


 パナマ周辺は、木々の鬱蒼と茂る森と川が周囲を形成する地域であった。川では魚が豊富に獲れたし、森にはグアバやアボカドといった果物がなっていた。高温多湿な地域に建設され、ソカロ(zocalo:イスパニアの居留地の中心に作られる広場)に向かって建築物が西向きに建ち並んでいたパナマには陽射しが絶えず強く入り込み、海岸に広がる潟のために湿っぽく温められた空気が町に流れ込むので、パナマには病人が相次ぐことで有名である。こうした状況は長いあいだ改善されることはなかった。というのも、パナマには定期的に商売にやってくる商人が住むことが多かったのだが、そうした商人たちの殆どは短期間滞在するだけで本国に帰ってしまうので、劣悪な町の衛生面について検討するようなことはなかったのだという。それに加え、既存の町を別の場所に移すのには莫大な費用がかかるため、後述のヘンリ・モーガンによる破壊が行なわれるまでは遂に、実行に移されることはなかった。こうした状況であったので、本国からやってくるフロータやガレオンの中継港として南米大陸からの産物を受け入れ、貿易が盛んになる以前においては、パナマは大して魅力のない、不健康な港のひとつに過ぎなかった。

 パナマの沖合いは大小さまざまの島が存在していた。それらの島はエンコメンデロたちの農園として黒人奴隷やインディオが住み着いて、主人であるイスパニア人のためにトウモロコシなどを栽培した。パナマ周辺では、小麦や大麦といった彼らの主食となるべき穀物は育たないため、南米大陸から流入してくる金銀などとともに輸入されてくるものに頼らざるを得なかったのである。

 貿易によって栄えることとなったパナマにバッカニアが目をつけたのは、自然なことだった。彼らは、最初陸路から、やがてマゼラン海峡を越えて海からもパナマを攻撃した。最初に建設されたパナマは1671年に、最も有名なバッカニアの一人であるヘンリ・モーガン(Sir Henry Morgan)によって徹底的に破壊された。その後、衛生面でもそれまでのパナマよりも優れた場所、旧パナマの西に新しいパナマの町が建設された。ここは非常に過ごしやすい気候にあったので、イスパニア人が多く定住し、港から山麓にかけての斜面は壮麗な建物が並び、美しい町並みで知られる。その町並みの美しさは、新大陸随一であるとも言われるほどである。また、新しく建設されたパナマには堅固な城壁が巡らされ、金銀財宝を目当てに襲撃を計画するバッカニアたちを悩ませている。時代は錯誤するが、古くはフランシス・ドレイク、新パナマの時代になってからはウィリアム・ダンピアの参加した私掠船団などがパナマ攻撃に失敗していた。こうした経験から、バッカニアの多くはパナマ自体は攻撃せずに、パナマと南米のリマやグアヤキル、トルヒージョといった港を往来する商船を狙うのを常套手段とするようになっていった。

KeyWord:[ノンブレ・デ・ディオス][プエルト・ベリョ][ヘンリ・モーガン][ペドラリアス・ダビラ(ペドロ・アリアス・デ・アビラ)][バスコ・ヌニェス・デ・バルボア][ウィリアム・ダンピア][バジル・リングローズ]
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バルトロメ・デ・ラス・カサス(Bartolome de Las Casas)

生没年[1484-1566]父ペドロ・デ・ラス・カサスはかのクリストバル・コロン(コロンブス)の第二次航海に同行した。また、バルトロメ・デ・ラス・カサスもクリストバルの息子であるディエゴ・コロンと親交があったため、ラス・カサス家とコロン家の間柄は深い。ラス・カサスは、1502年に新大陸にわたると、イスパニョラ島総督ニコラス・デ・オバンドに従い、同島で蜂起したインディオの反乱を平定する鎮圧軍に参加した(もっとも、これを"反乱"と呼ぶのも語弊が有るが)。その後、エンコミエンダ(新大陸において、インディオをキリスト教化する義務を負う代わりに、奴隷としてインディオを使役してもよい権利のこと)を得たラス・カサスは、インディオを用いて自らの農場経営に精を出す。1506年、一旦セビージャに帰還したラス・カサスは、司祭を志し、下級叙階を受けたあと、1507年、ローマにて司祭に叙階された。また、同地で親友ディエゴ・コロンのクリストバル・コロンの息子としての特権回復を求める陳情活動を行い、これを成功させている。これにより、ディエゴ・コロンはインディアス総督に任ぜられることとなった。


1511年、サント・ドミンゴ在住のとあるドミニコ会員が、インディアスにおけるイスパニア人のインディオに対する不当な扱いを糾弾した。これは、インディアスに住むラス・カサスの知るところとなり、大きな衝撃を受けたのである。このことが契機となり、ラス・カサスはインディオに対する残虐行為の撲滅を訴え、活動をしてゆくことになる。1512年、ディエゴ・コロンのキューバ島征服軍に従軍司祭として参加したラス・カサスは、同島で目の当たりにしたインディオへの残虐行為にショックを受け、従軍司祭の地位もエンコミエンダも放棄して、神学の研究に没頭する。やがて、イスパニア本国でエンコミエンダ制の不当性とインディオ虐待の即時中止を求めて、ドミニコ会員とともに活動するようになった。

ラス・カサスのこうしたインディオ保護の活動により、イスパニア王室は"インディアス審議会"を発足させ、インディアスに向けて調査団を派遣した。ラス・カサスもインディオ保護官として同行した。しかし、ラス・カサスの想いとは裏腹に、この審議会が派遣した調査団によるエンコメンデロやコキンスタドールたちに対する調査は手ぬるい(少なくとも、ラス・カサスの目から見れば)ものであったようだった。また、王の許可を得て自ら組織した平和的植民のための植民団のインディアスのける植民活動もうまくいかなかったので、ラス・カサスのもとからは次々と植民者が離れていった。こうした活動により、インディオを使役し続ける植民者のあいだでは、ラス・カサスの評判はかなり悪かった。身の危険に晒されるようになっていたラス・カサスは、ドミニコ会員となり修道院に隠れるかたちで自らの研究を続けた。

本国にインディアスの現状を報告するため、書簡を送りつづけたラス・カサスであったが、そうした声はラス・カサスのみならず、次第に高まっていった。1537年には、ローマ教皇パウルス3世がインディオの奴隷化を禁止する勅令を出すなど、ラス・カサスの活動は時を経て評価を得るようになっていった。こうした地道な活動は、1542年、インディアス新法成立によって結実した。ラス・カサスは20年ぶりに本国へ戻ると、カルロス1世にインディアスにおける現状を報告した。カルロス1世はこの報告を受け、バジャドリードにおいてインディアス評議会を招集し、インディオ保護を目的としたインディアス政策の見直しを検討する決定を下した。

こうした活躍に伴い、ラス・カサスのインディアス在住イスパニア人のあいだにおける評判は一層悪くなっていった。彼らはなんとかラス・カサスを宮廷から引き離そうと画策した。一方、インディオ保護を求めるラス・カサス支持派の人々のあいだでも、ラス・カサスは現地に居て引き続きインディオの現状を本国に報告して欲しいと願う声が多く、対極にある両者の思惑が一致した。こうした経緯もあり、ラス・カサスはヌエバ・イスパニャ(現メキシコ一帯)のチャパス司教区の初代司教となり、再びインディアスへと赴くこととなった。

しかし、ラス・カサスの願いはまたも裏切られることとなった。インディオの奴隷化禁止などを盛り込んだ新法の施行にエンコメンデロなどの反対の声が強く、この新法からはエンコミエンダ制の反対などの重要事項は先送りとなってしまったのだ。1547年、再びセビージャに戻って宮廷で活動を始めたラス・カサスは、1550年、バジャドリードで行なわれたインディアス会議において、エンコミエンダ肯定派と激しい議論を繰り広げた(バジャドリード論戦)。この中で、エンコミエンダ肯定派はコンキスタドールやエンコメンデロのエンコミエンダ世襲制を求めたが、ラス・カサスの主張もあり、これは認められなかった。

1551年以降、1566年にマドリードのアトチャ修道院でその生涯を閉じるまで、ラス・カサスは執筆活動と宮廷でのインディオ保護のための活動に注進した。その中で、ラス・カサスはインディオ保護のためにはアフリカの黒人奴隷をインディアスに導入することもやむを得ないとしたかつての自己の主張を反省するとともに、奴隷制度自体の不当性を主張している。そもそも、イスパニアがインディアス支配を正当化した根拠として、アレクサンデル6世の"贈与大勅書"があったが、ラス・カサスの死後1568年、時のローマ教皇ピウス5世は、勅書はイスパニアによるインディアス支配を正当化するものではない、との見解を公式に発表した。



KeyWord:[クリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)][チャパス][サント・ドミンゴ]
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ペドロ・アリアス・デ・アビラ(Pedro Arias de Avila)

生没年[1440~1531]別名ペドラリアス・ダビラ(Pedrarias Davila)とも呼ばれる人物である。カスティリャ女王イザベラ1世の親友と結婚した。レコンキスタの最終戦・グラナダ包囲戦で活躍すると、1513年にはアラゴン王フェルナンド2世(Fernando 2 de Aragon)の命により、19隻の艦隊を率いる司令官として新大陸征服に乗り出した。このとき、ペドラリアスは既に70歳を越えていた。また、この艦隊にはエルナンド・デ・ソト、フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ、ディエゴ・デ・アルマグロといったのちにコンキスタドールとして名を馳せる男達が応募しており、ペドラリアスの部下として新大陸へと旅立っている。


ペドラリアスが最初に到着したのは、サンタ・マルタ(Santa Marta:現コロンビア北東岸の町)で、次にダリエン(ダリエン地峡のカリブ海側の町)へと渡る。ペドラリアスはそこで、南海(Mar del Sur:太平洋)を発見したコンキスタドールのバルボア(Vasco Nunez de Balboa)と面会した。ペドラリアスは王命により、それまでダリエンを支配していたバルボアに代わり、カスティリャ・デ・オロという新しい行政区の総督となり、ティエラ・フィルメ(現コロンビアおよび南米大陸一帯を指す)の統治を委任されていた。この人事の発端は、以前バルボアに貶められたエンシソ(Martin Fernandez de Enciso)がバルボアを失脚させる為に本国で施した計略によるものだった。エンシソの諫言を聞き入れた王府は、バルボアによるティエラ・フィルメ支配を危惧して、新たにダリエン総督としてペドラリアスを新大陸へ派遣したものであった。ペドラリアスはこうした経緯もあり、バルボアへの対抗意識を隠そうとしない。彼は早々にバルボアを更迭して、これを軟禁してしまったのである。

その後、ペドラリアスはサンタ・マリアの司教、フアン・デ・ケベード(Juan de Quevedo)の仲裁もあって、バルボアを解放することにした。彼は、ケベードによる仲裁以降、バルボアに気を許したのか、自身の娘の一人をバルボアに嫁がせることにした(もう一人別の娘は、彼の部下であるソトと結婚した)。その娘はイスパニア本国にいたものの、バルボアとの婚約はケベードとペドラリアスの妻イザベラ・ボバディージャによって執り成されたのである。一方、解放されたバルボアは、南海発見という快挙と本国への財宝の献納という賄賂で本国にうまく取り入ることに成功し、"Adelantado of the South Seas"(Adelantado:総司令官)、また"Gobernador of Panama and Coiba"(Gobernador:総督)なる肩書きを本国王府から授与されることとなった。この新たな肩書きは、ペドラリアスによるダリエン統治を継続するというフェルナンド2世の意向を反映したものであった。王は、ペドラリアスを解任してバルボアを再任にすることなく、二人を同時に登用することを選択したのである。

元来猜疑心の強かったペドラリアスは、一旦解けたバルボアへの警戒心を再び強めていった。ペドラリアスとバルボアの親交は2年に及んだものの、そのあとは次第に険悪になってゆく。1519年、それまで強引な手法で迷惑を蒙っていたペドラリアスは、反逆罪という形だけの名目でバルボアを逮捕する。逮捕されたとき、バルボアはペドラリアスからの気持ちのこもった温かい手紙を受け取り、その要請に従って南海での探検からダリエンに帰還するところだったという。ペドラリアスは、帰還途上にあるバルボアの部隊を途中で待ち伏せして捕らえさせた。ペドラリアスの指示を受け、バルボアを捕らえたこの部隊を率いていたのが、のちにインカを征服して侯爵に奉ぜられたフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)である。

1519年、植民都市パナマを建設したペドラリアスは、ダリエンからパナマに本拠地を移した。老齢となった彼は、部下をパナマ以北に派遣し、南には目もくれなかった。1524年にヒル・ゴンサレス・デ・アビラ(Gil Gonzalez de Avila)によるニカラグア発見、1526年にはフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ(Francisco Hernandez de Cordoba)によるニカラグアへのレオン、グラナダ両都市の建設、ユカタン半島征服など輝かしい成功をおさめる。しかし、そうした成功のたびに、ペドラリアスはその猜疑心の強さと残虐な性格から、自分の部下を形ばかりの罪に問い、処刑を繰り返す。結局、その素晴らしい功績にも関わらずヒル・ゴンサレス、コルドバともにペドラリアスの手によって斬首されたのである。

同年(1526)、バルボアの死後、自らの部下となっていたフランシスコ・ピサロの南方探検に出資したペドラリアスであったが、その結果が惨憺たるものであったために、これに失望して引退を決意する。ペドロ・デ・ロス・リオス(Pedro de los Rios)がカスティリャ・デ・オロおよびニカラグア総督の地位をペドラリアスから引き継いだ。ペドラリアスはニカラグアのレオンに隠居し、1531年、91歳で死去するまでそこで余生を送ったという。彼は、インディオに対する残虐無比な拷問のやり口から、その死後も後世に不名誉な名を残すことになる。

KeyWord:[フェルナンド2世(アラゴン王)][イザベラ1世(カスティリャ王)][マルティン・フェルナンデス・デ・エンシソ][バスコ・ヌニェス・デ・バルボア][フランシスコ・ピサロ・ゴンサレス][ディエゴ・デ・アルマグロ][フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ][フアン・デ・ケベード][ヒル・ゴンサレス・デ・アビラ][パナマ(旧)][ダリエン][サンタ・マルタ][サンタ・マリア][サン・ミゲル湾][ニカラグア][ホンジュラス]

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グアヤキル(Guayaquil)

 ダリエン地峡(Darien Gap)、あるいはテワンテペク地峡((Istmo de Tehuantepec)をカリブ海(Mar del Norte)から太平洋(Mar del Sur)側に踏破する。パナマ湾(Gulf of Panama)をずうっと南下して、最初にあらわれる大きな湾がグアヤキル湾(Gulfo Guayaquil)である。グアヤキルは、1531年にコンキスタドールであるフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro Gonzalez)のペルー遠征に従軍したフランシスコ・デ・オレリャーナ(Francisco de Orellana)によって建設された植民都市である。それ以前は、インカ帝国に支配されていたインディオが暮らしており、彼らは幼児の上の歯と下の歯をそれぞれ三本ずつ抜いて、神に捧げる、という風習を持っていたらしい。


 グアヤキル湾は、北のサンタ・エレナ岬(Punta Santa Elena)と南のブランコ岬(Cabo Blanco)を外洋への出入り口とする。ブランコ岬の北の沖25リーグ(およそ120km)のところにサンタ・クララと呼ばれる無人島がある。この島の北岸は浅瀬になっており、多数の船が難破している場所で有名である。南からグアヤキル湾に侵入する場合、島の北へと針路を取り勝ちであるが、それはとても危険なことだった。そのため、サンタ・クララの北沖には財宝を積載したままの船が多数沈んでいる。インディオのみならず、はるばるイスパニアからやってきたとある人物もこの海域を潜って財宝を捜索したが、結局みつけることを断念せざるを得なかった。というのも、サンタ・クララ周辺には猛毒を持った魚が棲息しており、その毒は人を死に追いやるほど危険なものであるからだという。

 サンタ・クララを東北東にゆくと、プナ島(Isla Puna)がある。これはサンタ・クララよりも大きな島で、インディオが集落を築いている。この集落には教会があり、そのことがこの島のインディオがイスパニア人の支配下にあることを証明している。プナ島の西端をアレナ岬(Punta Arena)といい、ここに船を投錨できた。島の奥へグアヤキル湾を進むには、プナに住むインディオを水先案内人として船に迎える必要があった。島からグアヤキルの港までは、浅瀬がそこここに待ち構えており、水先案内人なしではとても安全に航行できはしなかった。

グアヤキル湾の入り組んだ地形は、イスパニアにとってこの上なく好都合なことだった。プナ島のインディオを見張りとして雇い、アレナ岬に交代で見張りを立てさせたので、仮にバッカニアが来襲しても周辺の町へ応援を頼むことも容易かった。それに、水先案内人なしでグアヤキルの港までたどり着くことは、さしものバッカニアでも不可能のことのように思われた。そうした理由により、グアヤキルは本国へと輸送されるペルー副王領から産出する金銀、またカカオといった産物が、一旦集められる一大貿易港として栄えていった。グアヤキルを中心に、トルヒーヨやリマ、パナマといった港とのあいだで、イスパニア商船が多数往来するようになったのだ。富を築いた商人やエンコメンデロ(インディオへのカトリック教化を請け負う代わりに、奴隷として彼らを使役する権利を王府より授かった者)の立派な邸宅が、緩やかな山麓の斜面に建ち並ぶ様は、とても壮麗で美しいのだという。

 かつてインカ帝国の主要都市として栄えたキート(Quito)という町もまた、グアヤキルを語る上で欠かせない。キートは、グアヤキルの遥か内陸部にあり、キートの人々が必要とする物資の殆どは、グアヤキルを経由して輸送されていたので、キートは貿易港としてのグアヤキルの発展に一役買っていたといえる。さらに、キートには、イスパニア王立のアウディエンシア(聴訴院:裁判権を持つ副王領における行政機関)が存在し、グアヤキルもこのキートのアウディエンシアの管轄下にあったので、キートとグアヤキルは行政と経済の側面を相互に補完し合っていたのだ。アンデス山脈の峻険な雪山に囲まれた盆地一帯に拓けた都市であるその地勢から、キートは豪雨に見舞われ、濃霧が立ち込めることが多かった。このため、キートのみならず、沿岸のグアヤキルでも、赤痢や高熱、頭痛などの病気に見舞われる人が後を絶たなかった。それにも関わらず、イスパニアがインカを征服してから、19世紀はじめにグラン・コロンビアの独立を迎えるまで、グアヤキルおよびキートはイスパニアによる植民政策の重要拠点の一つであり続けた。


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